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2006年04月の記事一覧
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2008.09.08.Mon / 11:45 
孤独と闘う力(2) 
2006.04.27.Thu / 23:44 
 昨日の続きです。

 孤独や苦しみとかなしみの負のスパイラルから抜け出す重要なポイントは、「具体的に動くこと」であると考えます。
 自らの置かれている状況とまっすぐに向き合うとか、どこまでも突き詰めて考えるとか、分析するとかいうことは、格好のいい言い方で、時としてそういう態度を我々は好ましく思ってしまいますが、本当はそうすること自体が落とし穴にはまる最大の原因になるのです。
 悪いことを頭の中でどこまでも分析し、考え詰めていっても、悪が増大し、心という得体の知れない底なし沼に自分の意識を沈ませていくだけでなのです。実体を伴わない頭の中での状況の操作は、実際の状況をどんどん膨らませたり変えていきます。どんどん良くもするし、悪くもします。いや、そのように私に思い込ませるのです。巷には夢を実現させる成就させるための方策として書かれよく売れている本があります。その本の類もこのことが引き起こす効用について力を入れて記述されています。しかし、実際の所この作用は、好転よりも悪化に向けて強く作用することが多いのです。好転してゆくには心が契機になって動きをつくりだし、実際に活動を起こすことによって良い結果を招き、正のスパイラルに入る必要があります。しかし、悪化していくには、何もせずにそのまま沈んでいくだけでいいのです。
 本題に戻ります。私たちがまずしなければならないことは、「考えるのをやめること」です。これ以上の深みにはまらないためには、それを増大させ、負のスパイラルにはまり込むことから自らを脱出させる必要があるのです。そのためには、考えることをやめればいいのです。しかし、考えるのをやめることは難しいです。現にもう自分は負の方向に足を進めつつあるのですから。
 実は、考えるのをやめることは困難なのです。では、どうすればよいのでしょうか。やめるのではなく、自分の意識の向かう方向をずらせばよいのです。
 つまり、他の何かに意識を向けるのです。自らの心を捉えてはなさないものに。しかも一過性、一時的なものではなく、継続して行えるものを。できればずっと続けていけるものに。そうすることが孤独と闘う力となるのです。闘うのじゃなく孤独であるという状態自体を考えなくなると言った方がよいかもしれませんね。
 たとえば趣味というのも一つの答えです。しかし、私はそのための手段として「学び」を強く勧めたいのです
 「学び」には常に具体的な動きが伴います。取り組む対象があります。つまり、そこには自分以外の他者というものが存在するのです。対話が生まれます。一人でいながら一人でなくなるのです。
 何を学ぶかという目的も大切ですが、学ぶという行為自体を目的にしていいと思います。
 「学び」には、繰り返すことで習熟していく喜びもあります。当初は未熟であったものが行為を重ねていくうちに技化していくのです。
 動きは動きを呼び、すぐに動ける軽い体となり、何事にも前向きに取り組めるようになります。
 要はそのための方策・手段・仕方・方法を自分自身がもっているかどうかということになります。

 私は、いくつかの学びを求めに応じて提供していこうとしています。私の考え方に賛同や共感してくださった方に学びを提案、提供させていただき、それが生きてゆく糧(物心両面において)になっていけばいいのにと思っています。

 長くなってしまいました。この項を読んでくださったご意見やご感想等をコメントしていただけるとありがたいです。
孤独と闘う力(1) 
2006.04.26.Wed / 16:37 
 人は誰しもその人生の中で大切な人との別れを経験したり、事故や事件を契機にそれまでの繋がりを断絶しなければならなくなったりもします。
 自分の置かれた境遇、自分が引き起こした状況等を冷静に頭の中で思い巡らし、突き詰めて考えるとき、どこまでも救いを見つけることができず途方に暮れてしまい、どうすることもできなくなってしまうときがあります。
 言いようもない不安と、孤独と、絶望と。
 そして何よりつらいのは拠り所がないことです。それ故心の糧を探しても見つかりません。いや、それはそもそも見つけるものではないはずです。それはそこにあるべきもの。思案の末に拠って立つところや支えやそんなものを見出そうとしても、たちまち無間地獄へはまり込むばかりで、何の解決にもならぬばかりか、余計に苦しみとかなしみの負のスパイラルにこの身を置くことにしかなりません。
 そこから抜け出すにはどうすればよいか。これが正解だというのはまだ見つかりません。100%の答えなんてないのかもしれません。ただ、以上のような状況を悪化させたり、これ以上自分自身がそれを背負い込んで心が深みにはまっていくことだけは何とか阻止したいと思います。
 そもそも状況は今より悪くなることはあまりなく、状況下にいる自己の魂自体が悪化してゆくのだから、それを何とかしなくてはなりません。悪化していく魂が悪い種をまき、それこそ本当に状況が悪くなっていくことに繋がるのだから。
 そこから抜け出す重要なポイントは何でしょうか。
 私はそれは「具体的に動くこと」であると考えます。

 お話は少し長くなりそうなので続きは明日にします。
如意輪観音に逢う 
2006.04.18.Tue / 00:16 
 大阪は河内長野市にある観心寺に行ってきました。目的は「如意輪観音」に逢うこと。ここ何年か前から仏像に興味があり、中でも一度見てみたいと思っていたのが観心寺の如意輪観音でした。
 如意輪観音は観心寺のご本尊で、秘仏です。毎年4月の17日18日の2日間だけご開帳されます。
 今日がまさにその日でした。ようやく思い焦がれた観音様にお逢いできると思うと朝からの好天にいてもたってもいられなくなり、気がつけば山門をくぐっておりました。
 拝観料300円に秘仏拝観券300円の計600円を払うと足はまっすぐ観音様がいらっしゃる金堂へ。履き物を脱ぎ金堂にあがると中には30人あまりの人が座ってお坊さんの話を聞いていました。私も同じように座った訳ですが、角度悪く、観音様はお姿の半分ほどしか見えません。10分ほどして話が終わり皆が立ち上がるのを待って本尊の真ん前に陣取って座り直しました。そして真正面から観音様と対面しました。
 如意輪観音は私の思っていた以上に美しく、それから半時間ほどの間ずっと見とれていました。これが今から1200年くらい前につくられたものだとは思えませんでした。肌の色は、白木でできているため当初はずいぶん白かったそうですが、(材質は樫だそうです)長い歳月の間にほんとうに人肌の色になっています。
 如意輪観音は、そのサンスクリット語名を「チンターマニ・チャクラ」といいます。チンターマニは如意宝珠、すなわち「あらゆる願いを叶える不思議な珠」という意味で、チャクラは戦車の車輪のことで、「仏法が、威力を持つ車輪が転がるように広がっていくさま=法輪」を表しているそうです。つまり如意輪観音とは、如意宝珠と法輪の功徳をあわせもつ観音さまです。あらゆる願いをかなえ、苦難を救ってくださるそうですが、実際にお姿を拝見してそんなことはどうでもいい、ただ逢えて良かった、来て良かったと思いました。仏像を見てこんな気持ちになったのは初めてです。正直惚れました。
大人のための学び 
2006.04.12.Wed / 22:40 
 今は中学生と高校生の生徒さんと一緒に学びを進めているのですが、できれば早い時期に大人向けの「学び」を始めたいと思っています。
 この半年ほどの間に何人かの30代後半から40歳代の方々から、次のような言葉をいただきました。
「20代や30代前半の頃はそんな風に思わなかったんだけど、最近になって国語の勉強をやり直せたらいいなとよく思うようになった。子どもも大きくなり、仕事の方もある程度の地位につけるようになっていろんな人と話す機会が増え、その度に自分の国語力や教養のなさが表に出てしまうのではないかとびくびくしてしまう。せめて恥ずかしくない文章で手紙を書けたり、いろんな話ができるようになりたい。」
 私は、その声に応えるべく、「大人(あるいはシニア)のための国語教室」というのを開設しようと思っています。国語をやり直せたらという期待に応えつつ、もっと気軽に文章を読んだり学習することを仕事や義務的にするんじゃなく楽しみにしていけたらと思います。
 ただ問題なのは働き盛りの皆さんなので、学習のための時間をどこで取るかということ。そうだ、インターネットを使ってとも考えているのですが、直に接して一緒に学ぶことの楽しさを味わってもらいたいし。
 いろいろと方策を検討中ですが、良いアイデアがあれば教えていただきたいです。できるだけ早いうちに開講したいです。
先へ進むために 心配事の片づけ方 
2006.04.12.Wed / 00:17 
物事というのは、自分がやらない限り他の誰も片づけてはくれない。
何かをやりたければまず目先のことを片づけてからでないと次へは進めない。


この言葉は、雑誌「致知」における鍵山秀三郎氏との対談で 山本一力氏が発した言葉です。
本当にその通りで、私にも先へ進むために片づけなきゃならないことがたくさんあます。それを全部自分で片づけなきゃならないのです。だから今、前へ進むために片づけなくてはならないことを一つひとつこなしています。


一つひとつで思い出したけど、倉島 厚氏の「癒しの季節ノート」の中に「心配事を縦に並べる」という話がありました。奥様を亡くし、神経症にかかった筆者にお父さんが語りかけた言葉です。

お前の心配事を縦に並べられないか。お前は横に並んだ敵に一斉に攻め立てられて、何もせずにおびえているだけだ。縦に並べれば当面の敵は一人だけだ。それと闘って、また次の敵と闘う。闘い続けて、お前が敗れても、、それは仕方ないじゃないか

この言葉に私は勇気をもらいました。あれもこれもしなきゃあと思うと気持ちが萎えてくるんですよね。でも一度にひとつずつならなんとかなる!


今回紹介した二つの言葉は、現実にきちんと向き合わなければ前へは進めないこと、そして目の前の課題をどう処理していけばいいかを教えてくれました。
しなければならないことを先送りせず、縦に並べてひとつずつ解決していこうと思います。
同行人という生き方 
2006.04.09.Sun / 00:02 
 いろいろあって、やっと新しい道を歩き出したところです。
 これからの自分の生き方のスタイルとしてあれこれ考えた結果、「同行人」としての生き方をイメージしたのです。
 「同行人」は「どうぎょうにん」と読みます。前回紹介した同行二人から私がつくった言葉です。
 私はこの「同行人」を肩書きとした仕事をしていこうと考えています。
 私を必要としてくれる「誰か」に寄り添い、ともに歩んでいくような仕事を。
 幸いなことにこれから活動をしていくための場所を提供してくださる方がいらっしゃって、この文章もそこで書いています。
 同行人としての仕事の第1弾としてそれを希望してくださる方もいて、「ともに学ぶ」という仕事をさせていただくこととなりました。平たく言えば塾ということになります。でも、学校の勉強を教えたりとか受験のための学習塾ではなく、学ぶこと自体が楽しみであり、目的であるような場にしていきたいと思っています。それが結果的に進学やらにつながっていくかもしれませんが。
 だからこの学びの対象者は子どもさんから高齢者の方までどなたでもということになります。実際にこれからご一緒させていただく第1号の方もお母さんと中学生のお子さんのペアです。私が準備させていただくオリジナルの教材である「みんなの国語」を使って勉強していきます。
 私の高校時代の恩師の言葉に「勉強は最高の遊びである」というのがありますが、一緒に勉強している時間が楽しく、充実したものとなるよう頑張りたいです。
同行人とは 
2006.04.08.Sat / 15:41 
 「同行二人(どうぎょうににん)」という言葉をご存知ですか?
 四国や西国巡礼者などがいつも弘法大師(空海)と一緒に巡礼しているという意で笠などに書きつける言葉です。
 お大師さんと並び立ちたいなんて大それた気持ちはありませんが、できれば私も私を必要としてくれる誰かに連れ添って、その人の夢や学び、遊びなどを応援したいと思います。
 そんな思いをこめて、自分のことを同行人と位置づけました。
 夢をかなえるのはその人自身。
 誰かにかなえてもらった夢なんてちっとも嬉しくないし、その夢をかなえるために費やした時間やしんどさやドキドキ感、それこそが自分の宝物になるんだと思います。
 でも、夢をかなえるために一人で進んでいくんじゃなくて、その時々に一緒に喜んだり、悲しんだり、励ましてくれたりする「誰か」がそばにいたらいいと思いませんか。
 私はそんな「誰か」なりたいなあって思っています。
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